第7回子ども支援者交流会の講演記録「パートナーとしての子どもたち〜スクールソーシャルワーカーのスタンスのあり方」

第7回 子ども支援者交流会

2019/3/24
於 早稲田大学戸山キャンパス

基調講演「パートナーとしての子どもたち」~スクールソーシャルワーカーのスタンスのあり方~

講師 日本社会事業大学名誉教授 山下英三郎先生

講演記録

 私は1986年から全国で一人スクールソーシャルワーカ(SSW)ーの活動を始めました。十年経っても一人だったのですが、スクールソーシャルワーカーという名前でなくても、似たような活動は徐々に拡がってはいったと思います。

そのころはもっと増えるといいと思っていたのですが、今ちょっと増えすぎではないか、という感じをもっています。

文科省はどんどん増やそうとしていますが、SSWとは何をする人なのか、ソーシャルワーク(SW)とは何かという共通理解が、だいぶ希釈されて拡がっているようなので、濃いめにするにはどうしたらいいかという事をお話しできたらと思います。

1、子どもの数と不登校児童生徒数、いじめ件数の推移から

 1985年には1,700万人を越える小中学生がいたのですが、2017年には980万人と800万人位減少しています。これは小さな国の人口に匹敵します。

それに対し、不登校の子ども達をみると、1985年には32,000人くらいでした。それが2017年度には144,000人。

1985年頃も不登校は増えていると言われていて、いろいろな施策をとって減らすように努力してきた。しかし、実際は増えているのです。

子どもの数が減っているのに不登校は増えているというのは、全体に対する比率がすごく高くなっているということです。

更にいじめはグラフをみると増減があるのですが、それは調査の仕方にもよります。

いじめそのものはそんなに増減するはずはないのですが、1985年中野区の鹿川裕史君が遺書を残して亡くなったのがマスメディアでいじめが大きく取り上げられた最初の事例です。1984年以前のいじめ件数のデータはありません。

1985年に155,000件くらいでした。1995年に少し増えています。このときは愛知県の大河内清輝君がいじめを苦にして亡くなった。

2012年は滋賀県でいじめが大きく報道されました。そのたびに増えているのですが、それ以降は報道に関係なく増え続けているのです。

これはいじめの調査を綿密にやるようになったからということは言えると思いますが、2013年に「いじめ防止対策推進法」という法律まで作ったのに全然減っていないのです。

つまり、「子どもは明るく健やかに」と言いますが、「明るく健やかに」育っている子どもの率はどんどん低下しているということです。

児童虐待もずっと増え続けている。校内暴力の件数も増えています。だから対策に力を入れている割に効果があがっていないと言えます。

2、対応に必要な要素

子どもの数が減り、いろいろな対策がなされているのに、問題は増えているのは、ひとつは子どもたちが求めているニーズとずれているからです。

例えばいじめ予防法みたいなのができても、子どもたちにはしっくり来ないし、子どもたちが置かれている状況は改善されていないです。

何が欠落して、何が求められているのかということが問われないままに皮相的な解決策ばかりで、根本的なことが欠落しているのだと思います。だから、必要なのは子どものニーズをキャッチすることです。

不登校が14万人いるというが、その裏には「学校に来たくない」という子がもっといるわけです。

どういうことが子どもを学校から遠ざけているのか、どうすればもっと親和性が高まるのか、をキャッチし、その上で対策を立てなくてはなりません。そのためには当事者である子どもの声を聴くことです。

フリースクールやフリースペースでは子どもの声を聴いているのだが、教育行政は聞いていない。

そのためには子どもが声を挙げる機会を保障する。子どもの権利条約には、子どもの意見表明権が条文にあるのですが、実際にはなされていない。

そして解決のプロセスに当事者を参加させことが必要です。子どもを参加させずに大人だけで考えても、ニーズに合わないわけです。単純なことなのですが、それがずっとできないままになってきています。

3、専門職について

 そうした中、SSWとして活動していくわけですが、専門職とは何かを自分なりに押さえておかなくてはいけないと思います。

専門家が陥りやすい罠というのは、知識と技術を大事にするのですが、それが物事を解決してくれるというような幻想をもってしまうことです。

知識や技術を身につけることは悪いことではないが、それで「私は専門職なんだから」と自分の中で権威化してしまうと当事者と距離ができてしまう危険性があるのです。

知識や技術を身につけるというのは当事者に近づいていくためなのです。私は実践家から大学の教員になったのですが、そのとき自分で戒めたのは、大学の教員になったら変わってしまった、と言われないようにすることです。

 専門家が陥りやすい罠として、技法への過信―さまざまな技法が乱立していますが、技法自体が人を変えることが出来るのか? 人を変える手助けにはなるかもしれないが、技法を身につけることは、困難に直面している人に近づいていくためです。

この人は私の痛みをわかってくれる、というようになっていかなければならない。技術が箔づけのようにならないように気をつける必要があります。

もう一つは医療至上主義です。

ケアチームに医師と看護婦、介護職がいたら、医療職が一番社会的なステイタスが高いような感じがあり、チームを組んでも医者の意見が一番重いようなことがあります。

私たちは医療に幻想を抱いていますが、医療が問題解決できるのか、特にメンタルに関わることで診断が解決できるかというと、私はできないと思います。

専門職としてはやはり対等であるべきです。職業で階層をつくってはいけない。

ソーシャルワーカー(SW)はこのへんから問い直していかなければいけないと思います。医療者を尊重することは大事ですが、卑屈になることは禁じるくらいの覚悟があった方がいい。

見立てが医療者とSWが違うときに、一方的にこちらが引いていたら、見立てられた子どもにとって不利益になることがあるのです。

子どもの可能性を引き出したり生活の質を高めるために、SWのアプローチのほうがいい場合があるかもしれない。自分達の職業にプライドをもって関わることが大事だと思います。

 それから、成果主義、評価主義が蔓延していて、専門職も組織の中に入っていくと必ず評価され、成果を求められる。それで、その方向で動いていってしまう。

当事者の評価というのはあまりないですね。子どもや家族の評価ではなくて、学校や教育委員会の評価だったりする。しかし評価が当事者の最善の利益と一致しないことがある。

例えば不登校の子どもに学校復帰することが求められて、それが出来ればSSWは教育委員会から力量があると評価が高くなることがあります。だけど、学校に行っている子どもたちは楽しんで行っているのではなく、行かされている状況がでてきたりします。

だから、学校システムに雇用されているとはいえ、距離をおくことが大事です。その距離の置き方が難しい。組織の中で生き残っていくある意味のしたたかさが必要です。

更に、枠組みへの執着ですが、支援計画はどこでも求められますが、子どもにとって計画がどうかではなくて、計画にそって子どもをどうするかということになることもあります。

だから計画に縛られないような柔軟な計画の立て方が大事です。子どもの実情にそったジェル状態の計画でないといけないと思います。

 またSSWは雇用主体が教育委員会だったりするため、制度・組織の代弁者になり、組織を擁護することを求められることがありえます。それで事実を隠蔽するのに加担することも起こりうる。滋賀の事件の時、SCが批判されていますが、SSWも陥りやすいことです。

 SWは変革の担い手(Change Agent)とアメリカなどでは言われています。

例えば、不登校・いじめが増え続けているという状況がある。その状況を放置したままで、今いじめられている子をサポートしてもそれで十分ではない。そういう状況を改善するために働きかけていく。

子どもは大人に対して弱者ですから代弁・権利擁護をしていくことが大きな柱です。

実際活動しているときに、どちらにつくか揺さぶられるときがあると思うのですが、制度を運用するのではなく、制度を変えるというくらいの意識をもち、子どものニーズに即して実践していかなくてはいけない。

それを「私は制度を変えるのです」と声高に言うのではなく、したたかに、制度の中で変えていくような視点が必要です。

スクールソーシャルワーカーの‘スクール’を‘学校のためのソーシャルワーク’と考えている人たちがいますが、もともとは‘学校の中におけるソーシャルワーク’なのです。

クライアントは常に困難に直面している子どもです。その視点をもちながら、雇われている身分ですから、そこをどう持っていくかです。

 学校と子ども・保護者の利害が対立するケース(学校事故、いじめ、過剰指導、自殺など)でも、組織防衛と学校支援が求められると思います。そうすると学校からはよくやってくれた、と信頼されるかもしれないが、保護者・子どもからは不信感をもたれます。

ある集会で、保護者の方が「今まで二人のSSWと関わりましたが、私たちの気持ちを全然聞いてくれなかったので、よくなかった。だからSSWをいいと思えない。」と言っていました。

ソーシャルワークの価値と倫理を重視すると、組織の中では孤立・排除されることも出てくる。だからここのところをどうするか、という問題です。

対立していると思われる行政、教育委員会の人も、子どもが元気になれば喜ぶのです。目標は同じなのですが、方向が違うのです。SSWは違うところの良さを示していく。

保護者がしたSSWへの肯定的な評価は雇用する側も否定しないし、できないと思います。

 そういう難しさはあるのですが、専門家の役割はどういうものかというと、とにかく当事者の最善の利益を追求すること―最善の利益とは難しいですね。

子どもが考える最善の利益と私が考える最善の利益、学校が考える最善の利益…これが絶対の「最善の利益」というものはないと思います。

最善の利益とはお互いが作り合っていくものだと思います。

子どもたちがもっている可能性、当事者の能力への気づきに専門家は鋭敏であって欲しい。私はSSWの力量をはかるめやすは、人のもっている力にどれだけ鋭敏であるかだと思っています。この子はダメだとか言うのではなく、可能性や力をキャッチできるような感度を高めていく。

これは技術論ではない。人と接しながらその力を高めていく訓練が必要だと思います。

そして、それを発揮する機会を作っていく。自分だけでSSWが関わるのではなくて、コミュニティ(地域だけでなく、家族・クラスなど)の力を活用して当事者をエンパワメントしていく。専門家の力量をみるもう一つの観点は、人の力をどれだけ活用できるかです。

4、実践上の課題

 文科省が出したSSWの職務内容は、「

①環境への働きかけ、
②関係機関とのネットワークの構築、連携、調整、
③学校内のチーム体制の構築、支援保護者、教職員等に対する支援・相談・情報提供、
④教職員等への研修活動 等

」とあります。

どれも大事なことですが、子どもへの直接支援のことは出てこない。不登校、いじめ、虐待についても、子どもとの関わりを文科省は求めていない。

これは、ソーシャルワークの中ではメゾレベル(間接支援)です。ですが、ソーシャルワークには、ミクロ(直接支援)、マクロ―大きな制度、居場所づくりなどもこれに入る―があります。

文科省は、ソーシャルワークの三つのうちのメゾの部分をものすごく重視している。これはソーシャルワークをやっている者からすれば、とてもイビツです。

困難に直面している人を支援するミクロの部分は大きいはずです。むしろここを抜きにしてメゾはないのだと思うのですが。

メゾの部分は、ケースマネージメントであり、これだけなら‘スクールソーシャルワーカー’というより、‘スクールケースマネージャー’と言ったほうがいいと思います。

この形が求められて雇用されることが多いわけですが、これに甘んじていてはいけない。いかに雇用されている枠組みを超えて、ミクロを増やしていくか。あまり従順であって欲しくないです。

なぜかというと、子どもを少しでもいい状態にもっていくには、子どもを見ること(ミクロ)がなければダメなんです。三つの領域を包含した活動が大事です。

SSW活用事業をつくった人たちは、ソーシャルワークを知らない。むしろ、教育委員会や雇用した人たちに対するソーシャルワークの啓発活動が必要です。

 ミクロ・マクロの排除は、ソーシャルワークのミッション(クライアントの利益の最優先、権利擁護・代弁、制度・環境の変革)がすっぽり抜けてしまうことで、ソーシャルワークの実践モデルとしては欠陥です。

これをソーシャルワークの実態にそって変えていくのは、われわれがやっていかなければならない。

5、問題について考える

 一般的なアプローチというのは、問題に焦点を当てるわけです。

問題を指導や治療やいろいろなアプローチでなくそうとする。これを病理モデル、医学モデル、診断モデルと言ったりします。社会全体がこういうアプローチをします。

しかし、こうなっていくと問題を個人に還元する。「あなたがちゃんとやればいいでしょう」と、自己責任という個人を変えていくという発想になっていきます。

そうなると社会的要因というのは問われないわけです。

不登校の子どもに「あなたが弱いからだ。もっとがんばれば解決するよ」ということになる。

それに対してソーシャルワークは生態的視点―人と環境の交互交流(transaction)、循環的交流に注目します。人が環境にも影響を与えるし、環境も人に影響を与えるという考え方です。

この循環がうまくいかない(不適合状態)とき、ソーシャルワークでは‘問題’と言います。

適合状態にすると言うと、元に戻すというイメージがあります。例えば不登校の場合、学校に戻るのが適合状態と言われます。本人もそれで喜んでいるならいいですが、どうしても環境と合わないときに、そこと適合状態を作ろうとすると無理が出てくる。

以前家庭裁判所に離婚調停に行った人がいますが、家庭裁判所ではなんとか別れさせないで元に戻すようなことばかり言われるので嫌になって帰ってきてしまったという話をしていました。

学校に行けない場合、学校に行くという形で不適応状態を解消するのではなく、他の環境でとて適合状態をつくり出すという選択肢を持っていた方がいいですね。

そして適合状態に持っていくには、人のもっている力に着目してそれが発揮できるように支援していくことが大事です。環境が人のニーズに合うように働きかけるのです。

 問題をいかにとらえるか、ですが、私たちは問題があってはいけない、という否定的な考え方をしがちです。しかし問題が常にマイナスの意味しかないかというのを考えてみると、辛い体験が成長につながることもある。そう考えると、問題を抱えることは‘問題’ではないのではないか、私自身はそう思い続けてきました。

いかに体験するかということが大事だと思うのです。

問題を抱えて困ることは、それによって生きる希望を失ってしまったり人を信じられなくなってしまったりすることです。

そういう生きる力がパワーダウンするような体験の仕方は困るのですが、問題に直面したことで成長につながることもある。

どのように体験したかによってそれが分かれていく。

ここにSSWやSCが入ってプラスにシフトできるようにしていくところに人を支える意味があるのです。

問題を抱えることは、成長と停滞・後退の岐路にあると思います。だから問題があることを否定的に考えない。

大事なのは、それがどう好転していくかということです。専門職としての役割は問題の肯定的体験への転換の手助けということになります。

PTGということを挙げていますが、これはトラウマ後の成長という事です。それは一人ではできない。

十年くらい前にアメリカの母校の卒業式に参列する機会があったのですが、ひとりの男性が話したことが印象的でした。

その人は、「僕にとってはソーシャルワーカーがヒーローでした。」と言ったのです。小さいときに家庭が大変な状況で、そのときソーシャルワーカーが家庭を支えてくれて助かったとというのです。

その彼が思春期に行動が乱れたとき出会ったのがソーシャルワーカーで、また助けられた。それから長じてHIVに感染して人生に絶望したときもソーシャルワーカーに出会って支えられて生きる希望を持てた。さらに刑務所に入ったときもソーシャルワーカーに出会い「君はソーシャルワークの勉強をしてみないか」と言われて、出所してからこの大学に入り、今日卒業を迎えることが出来た。これから自分が、いろいろな岐路に立っている人たちを支えていきたいということを言ったのです。

いろいろ落ち込んだんだけど、その都度手助けしてくれる人がいて、経験をプラス方向に転換していったく例として挙げました。

 問題があると、病理モデルで私たちは対処しようとします。

個人でも悩み事があるとどうしようどうしょうと考えますよね。そして布団に入っても寝られない。問題をなくそうなくそうと思っているのに肥大化してしまうのです。

不登校をなくそうなくそうとして拡がっているのと同じです。これは対処法として間違っているのです。楽になろうとしているのに悩みがさらに大きくなっているのですから。

なくそうというより、違った方向に考えたほうがいいと思います。それは自分の世界を広げるということです。

例えば人との交流を広げたり、行動範囲を広げたり、知識を広げたり、そうやって自分の世界を広げると、問題は解決してないけれど、自分の世界の中の比重は小さくなっていくのです。

小さくなれば生活できるのです。

振り返ると辛かったりするけれど、日常生活はできる。だから問題は大きくしないことが大事なのです。

そのためには世界を広げる。問題は痛いけれど、それによって人が抱えている悲しみや苦しみに感応することができる。

それが共感や優しさにつながっていく。だから問題を抱えるということは、人とつながるエネルギーにもなるということなのです。

 問題を解決するという発想に囚われないことが大事だと思います。実際の相談の時に、私は問題の「解決」という言葉は使わなかったです。だって解決する事なんてできませんから。

しかし「軽減する」ことはできます。関わることによって子どもの世界を広げる。

一つはその子と出会ったことで世界は拡がりますよね。軽減することは大きい。すっきりしなくても、まあいいか、ぐらいでいいと思ってきました。

他者の問題を解決できるというのは幻想だし傲慢でもあると思います。解決は当事者がする。そのサポートをするということです。

問題の解決というのは非現実的であり、ハードルが高すぎる。実現可能なゴール設定が必要だと思います。

6、パートナーシップについて考える

 子どもとの関係は力の不均衡があるので、人権侵害が起こりやすい。大人であると言うだけで既に権力を持っているのですから。

大人に何かされると、子どもは抑圧されたという感覚を持ちやすいので気をつけなければいけないところです。子どもは身体・知識・経済力・政治力・社会的地位において絶対的弱者ですから。

私たちが普通のことだと思って言っても、子どもにとっては抑圧になると意識しておくことが必要です。

大人の枠組みの押しつけが子どものニーズとのズレになっていくわけです。大人は懲戒的な対応をしたり、治療的な対応、教育的対応を、上からの視点で倫理的基盤がない中でやったりします。

結局子どもはいつも間違っている、大人が正しいんだとやってきたわけです。

これは最初に話した不登校やいじめに対する国の政策にも言えます。それで子どもたちから敬遠されることになり、そこが限界であり問題点でもあります。

だから上下関係でなく対等な関係で、倫理基盤をしっかり、何故にこの発言・行動がなされるかをしっかりみつめることです。

親のこと、先生のことについて、子どもが言うことはおおむね正しい。正しいんだけどやることはちょっと違って窓ガラスを割ったり手を出したりすることがある。そこは考えようね、ということはあるのですが、言っていることは子どもだがら間違っている、大人だから正しいということはないのです。

 よく心のケアと言われますが、子どもたちは心だけでなく生活全体で生きているのです。環境の中の存在として捉えていくことが大事です。

例えば不登校を治療(今はあまり治療と言いませんが)してもそれだけではない。いろいろな生活の背景を抱えていることがある。

子どもたちから選ばれる要素は、まずは子どもの話を聴くということ、対等性(対等であると知ってもらう)、秘密の保持(チームで情報を共有することは重要だが、個人の秘密を守ることも重要。その辺は簡単に片づけず悩みつついくことが大事。チームケアをするときは、当事者も入ると、情報共有者がだれかわかる)、最善の利益(子どもと作っていくもの)、こういうことを点検しながら関わっていくことです。

7、行動を理解する手がかり

 子どもたちが、悲しみや痛みや疎外感、苦しみなどを抱えると、自分を取り戻そう、守ろうという動きが出てきます。

その動きは、身体症状としては熱が出たり吐き気がしたり痛みが出たり、ひきこもりのような事が出てきたりもするし、相手に対する攻撃になって出てくることもあります。

痛みは自分に向かうこともあるが、人(自分に痛みを与えた人でなく不特定多数)に向かう場合もある。それらいろいろな行動は自分を守るための行動なのです。

場合によっては嘘をついたり人の物を盗んだりということもあるのだけど、大人は、その行動だけを問題にする。人の物を盗んではいけないと言って、「もうしません」と子どもが言ったとしても、その心の空間がある限り繰り返します。

どうしたらいいかということは、その子の心の中の空白を埋め合わせるということだと思います。

いじめている子に、「人を大切にしろ」と言っても、自分が大切にされることがなかったら人を大切にすることはできないのです。だからいじめを繰り返す子がいたら、その子を大切にすることをまずしていかなければならない。安全・安心を保障するということだと思います。

 発達障害については学校などは、すぐ医療機関につないでください、と言うけれど、SSWがすぐ病院に連れて行くようなことにはブレーキを掛けてほしい。その行動は虐待や暴力、差別などからきていることも大いにあり得るのです。

20年くらい前にいなかったのに今発達障害と診断される子どもが突然出現するなんておかしいでしょ。それをおこさせるだけの環境があるので、すぐ医療につなげるのではなく、その子の行動がどこからきているかアセスメントをちゃんとして、話が出来るくらいの知識と経験が必要になってくると思います。

虐待の専門家も、虐待を受けた子どもの行動が発達障害と診断されることがあるとおっしゃっています。私たちは診断する人ではないので、この子のこれまでをよく見ていかなければなりません。医療は大事な領域ですが、過剰に信じないことが大事だと思います。

 自立と社会性を考えてやっていくということについてですが、自立と孤立は違います。

生命的に考えると人はみな自立しているのです。そこを前提にして社会的自立や経済的自立があるわけです。

社会性というのは、他者との関係を受け入れ調整する能力です。これは人の中で生活すれば身につくと言われていますが、全然違います。むしろ他者に対する信頼感が社会性を左右する。

学校の中でずっといじめられて生きてきたら人との関係なんて受け入れられるわけないですよね。暴力や虐待やいじめなどの否定的行為をずっと受けていれば社会性が奪われてします。

承認・受容・愛情などの肯定的関わりが社会性を養う。つまり人といい関係を持ってきたか否定的な関係をもってきたかが社会性を左右する。

だから家の中で引きこもっていたら社会性が失われるということはなくて、家の中で家族に認められて育てば社会性は失われない。しかし、一番信頼している家族から否定されると社会性は阻害される。

 とにかく、子どもの力を信じるという信念、生きていることそのものを肯定する承認、自分の決定を尊重する。しかし決めたことがうまくいかなければサポートする。失敗することも意味があるので、小さな失敗があってもちゃんとそれを支えていく関係があることが大事だと思います。

8、他者を支える上での留意点

 安全・安心を感じさせる場所、人が大事です。

私たち(SSW)は関わっていると無力感をもちますが、爪楊枝の先くらいは意味はあるかもしれない、と思っています。それがあるのとないのとでは大きな違いがあります。そのためにも、ミクロレベルの関わりがないと支えができないです。

当事者のエンパワメントはとても大事です。自分が解決の当事者なんだということ。当事者との連帯の重要性。当事者から問題を取り上げない。そのためには意志を最大限に配慮する。十分な説明をする。

最善の利益といいますが、それが一致しないこともあります。だからそのための共同作業が大事です。

自己決定と言いますが、それはなかなかできないですよね。自己決定までのプロセスが大事だと思います。すぐに決めるというより、決めるような条件作りをするということです。

 サポート支援が不足すると孤立感を増し、自尊心が低下し、そういう思いは生活のQOLを下げ、自虐行為、他逆行為に結びつきます。だからサポートが大事です。

虐待の専門家であるアリス・ミラーが虐待の世代間連鎖について言っている言葉で、人が生き抜いていくためのキーワードだとも思っているのですが、虐待を受けた子が自分も虐待をする親になるとは限らないらないという多くの例があります。

その場合のキーポイントとして「事情をわきまえた証人」が大事だというのです。

子どもが虐待を受けていたときに、その子のことを常に受けとめ理解してくれる人がいた場合は、虐待をしない親になることが多い。しかしすべての人がそれをもつことができない。

その時に、「助ける証人」―事情をわきまえた証人を得ることが出来なくてもその後に出会い理解してくれる人に出会えた場合は、虐待をしない親になりうるということです。

それは虐待に限らず、傷を抱えた人が理解してくれる人と出会うことで安心・安全を得るということと同じことです。

渦中にいる時にいればいいのだけど、そうでなくても後で出会った人が支えになるということもあるのですね。

それは我々SSWにとって大きなヒントになると思います。いじめの渦中にあるときには出会えなかったけれど、その後に支えることができれば、子どもはかなり癒されるということです。助ける証人になることはできると思うのです。

また、マザー・テレサの言葉ですが、「人にとっての最大の不幸は、誰からも愛されず、必要とされていないと感じながら生きることです。」という言葉があります。

だからそばにいて、あなたのことを愛しています、必要としていますと伝える―それで、その人の最大の不幸を軽減することができるということです。だから直接援助というのがいかに大切かということですね。間接援助では必要としているということを伝えられませんから。

 問題を抱えるということは居場所を喪失するということですから、居場所は大事です。

まずは自分を居場所として始めていく。また、中学卒業した後、サポートをどうするか、というような制度適用の枠外にある人たちの居場所をどうするかということも頭に置きながら活動することも大事です。

あらゆる空間が居場所となりうるので、特定のスペースである必要はないです。それと、居場所を考えるとき、不登校なら不登校だけというのではなく多様性を考えることが大事かな、と思います。

 豊かな子どもというのは、理解し尊重し支えてくれる人びとに囲まれて生きている子どもです。これが少ないので、SWが必要なのです。

人と居場所を確保することは地域社会にできることでしょう。連携とよく言いますが、子どもが、自分を応援してくれる人がこれだけいるのだ、と思えるように連携するということで、問題をなくすために連携するのではないのです。子どもたちがエンパワメントされるための連携が大事だと思います。

〈参加者のグループ毎の話し合いの報告〉

①グループ

学校にSSWを理解してもらうにはどうしたらいいか。

配置型、派遣型の両者がいるが、派遣型の場合は特に、学校を巡回して、不登校に限らず、給食費未払いなどの問題がないかなど、学校が問題を把握するきっかけを作る工夫をすることなどが出された。

②グループ

保護者のニーズ、学校のニーズに振り回されることがあるが、やはり子どものニーズに耳を傾ける事の重要性を改めて感じた。

たとえば、学級の中が荒れているなかで、特定の子どもが先生や他の子どもに向かっていった場合、その子どもの発達の問題、保護者の問題と捉えられ、SSWにどこか病院につないでくれ、という話があったとする。

SSWからみると、特定の子どもの問題というより、もしかすると先生の教え方とかに問題があって徐々に状況がひどくなっているともみとれ、学校のニーズにすぐ応えられない部分がある。かといって、学校の問題ではないか、と言うと、学校自体に入れなくなってしまう。

学校と対立しないで、どうやっていくか。また、管理職が入れてくれなかったり、担任だけが問題を抱えていたりして共有されていない状況があることなどが出された。

③グループ

SSWの派遣型、配置型の話。SSWは実際何をやっているのか。SCとの役割分担も大切ということ。

問題の解決について、問題は解決できないというか、その人たちがどう自分らしく生きられるか、解決より軽減が大事だ、というところでまとまった。

④グループ

SSWが調整役と考えられているということにびっくりした。もっとミクロの考えでやっていくのが大事だ。

居場所の話―寺子屋での実践、適応指導教室後の場としてSSWが居場所を作った実践の話が出た。関わった子どもで「大きくなったらSSWになりたい」と言っていたが、大学に入り実際には事務職を目指すようになった。

それは現実問題として、SSWの待遇の問題がある。これからはSSWを若い人が目指せるような待遇改善や、SSWの仕事が認知されるような活動が出来るといい。

〈質疑応答〉

Q: 子どもも当事者として話し合いに入る、というお話があったのですが、実際に学校のケース会議などで大人に囲まれて話すのは難しいのではないかと思うのですが、どういう形で話し合いに入るのですか。

山下;直接入れたらいいと思うのですが、あなたの問題だから入りなさい、と強要するのは違いますよね。その場合、SSWのような子どもの声を代弁できる人が入るというのもあるし、ちゃんと傍に付いていれば言えるということもあります。ただ話し合いの場に放り出すようなことは、子どもにとってハードルが高いと思います。子どもが発言できたり、代弁するような工夫は必要です。

Q: SSWの知名度が低く、先生にさえどういう役職なのかわかってもらえないという意見が出ました。山下先生にもっと知名度アップのためにやっていただければと思いますが。

山下;今、広げる事がいいことなのかという問題がありますよね。共通言語がない中で広げるというと変な拡がり方をするのではないか。そのあたりの難しさがあるのです。私一人がやっているときは、知らせることに力を入れてやってきたのですが、いまはあまり前面に出たくない。むしろ、足下の基盤づくりとして研修をしていきたいと考えています。研修に出た人が、また次の人に話していくというような形が大事かなと思っています。

Q: 最善の利益が一致しないという中で、山下先生が意識している、これだけははずせないという最善の利益は何でしょうか。

山下;子ども一人一人が成功者として存在しているということ。失敗の人なんていない。生きているだけで成功しているということです。ダメな子だとかしょうがない子だとか言う人がいるけど、ダメなことはするけど、ダメな子はいない。そういうところは譲れない、大事にしていきたいと思っています。

以上

子ども支援者交流会については、以下のページを参照ください。

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